2021年7月15日木曜日

ラグビー部20年史その2

 





ラグビー 部の創立

県立高崎高等学校ラグビー部の創立は、第二次世界大戦の終つた翌年昭和21年(1946年)11月3日である。

ラグビー部創立の動機は、敗戦により日本国民の生活は安定を失い、社会秩序は乱れ、中学校(昭和23年高等学校になる)の生徒の間にも顔廃的気風が横溢しつつあった。

その時、本校の先輩であり、 また学校医である、 高草木喬先生が、体育教官の富田俊一先生と「何か生徒に心身をうちこめるような運動はないだろうか」と話し合われた。その時高草木先生が、「ラグビー」が最適ではないかと切り出された。富田先生は一も二もなく賛成され、話はまとまった。そこで、当時の学校長内藤由己男先生に「ラグビ一部創立」の承諾を願いでたところ、「バック·ボーンのある生徒を」と内藤校長も考えておられたので、快諾された。

そこで、高草木先生は部員を集めるため、 希望者を放課後教室に集めてラグビー競技について詳しく繰り返し繰り返し説明された。

生徒の中には、何か不満をぶっつっけたいという気持もあって、ラグビーという全然未知の、 ふんまんの晴らせそうな部を創立しようと20名程の生徒が集り、昭和21年11月3日の交文化の日を期して、高崎中学校ラグビー部が結成された。

創立にあたって、 持導者として一番配慮しなければならないことは、中等学校ラグビーとして、日本で最も古く、日本ラグビー史の第一頁に記されている、群馬県立太田中学校ラグビー部 (明治40年創立)の前例にもあるように、競技の性格上とかく暴力の具として利用されることであった。

そこで部員に時あるごとに「ラグビー精神」 を説き、正しいラグビーを身につけるよう務めた。 そのために 「ラグビー精神」に徹した高崎高等学校ラグビー部が誕生した。 そして短期間に立派な発展をし、全国に名門高崎高校ありと知られるようになった。

この高草木先生の教えられた「ラグビー精神」は時はうつり、時代は変っても、高崎高校ラグビー部の精神として、 部の存続するかがり、 先輩から後輩へ、上級生から下級生へと受け継れて行くであろう。

またこの高崎高校ラグビー部魂があるかがり、 ラグビー部は存続するであろう。












○ 第2回(福井)国 民体育大会

○ 県予選

前橋中学校庭で前橋中学と対戦した。

14対0で、創立以来6試合目で、前橋中学をはじめて破り、創立以来初勝利をあげた。

前橋中学は、昭和4年に、野村吉之助先生(前前橋高校校長)によってラグビー部が結成、 指導された。戦前は関東にその名をとどろかもていた古豪である。

県決勝戦は、強敵桐生工業と対戦したが、一日の長ある、桐生工業に」トライをむくいただけで6対3で敗れた。

桐生工業には、スタンド·オフに好プレヤーがいてスクラム。サイドをいとも簡単に抜かれて敗れた。

○ 第27回全国中等学校大会

○ 県予選

第一戦は前橋中学と対戦し、28対3と一方的に破った。

第二戦の決勝戦は、強敵桐生工業と対戦したが、あぶなげなく9対0と破り、初めて県代表になった。県下初優勝をした。

○ 関東ブロック予選

第一戦は、当時関東に君臨していた、強豪横浜商業と対戦した。この横浜商業が、本校の県外チームの初試合であった。

本校のユニホームと横浜商業のとが、よく似ていたので、 本校が立命館大学のユニホームを借りて試合した。

寒い雨の日で、前日の雪がグラウンドに残り、ラインも雪を除けて引く悪コンディションだった。結局8対3で敗れたが初の県外試合としては上々の出来だった。

この年特に、忘れ得ぬ思い出の試合は10月18日の対前橋中学との練習試合である。

高草木先生と家族を連れて、試合を見たが、選手の技術の上達ぶりに驚いた。何らあぶなげなく一方的に試合を進め、18対0で前橋中学を破った。創立9試合目のこの試合以来10年間県下不敗、101連勝を達成した、ての端緒となった試合である桐生中学にラグビー部が結成された年である。

旧制中学卒業者は、井上 (早大) 、静野 (群大) 、阪本 (群馬県警祭)吉井(高崎税務署)、で他は新制高校に進んで本校に残った。













2021年7月8日木曜日

日々の練習

 







最近の練習風景です。

一年生もたくましくなってきました。







2021年7月7日水曜日

ラグビー部20年史その1

 





序文

何時かは誰か書かねばならない高崎高等学校ラグビー部史を岡田先生が書いて下さったその御苦労を心から感謝している。

今から20年前の終戦直後高崎中学校の生徒が誇りと希望を失い放心したように夜遅く繁華街をほう復している姿を見かけ先輩の一人として私は心を傷めたのである。

私は運動具店でアメリカンフットボールのボールを見つけた、定価は500円だった。早速これを求めて高崎中学校の富田先生を尋ね「生徒にラグビーをさせ、生気をよみがえらせてやりましよう」と意気投合、 直ちに内藤校長に面接し、ラグビー部設置をお願いしたが最初先生は「ラグビーは乱暴なゲームでしよう」と困惑顔。そこで私は肉弾相撃つゲームで、 一見乱暴に見えるがラグビーゲーム程正義と自制の精神を要求されるゲームはな

いので乱暴に堕する危具は全くないし、 現在希望を失った生徒には最適なスポーツであることを説明すると内藤校長は九州なまりのある元気な声で「よろしい、やらせえましよう」と気持よく許し、この一声がラグビー部を生んだのである。

そしてこの時から「モングサ」 のコンビが始まった。「モングサ」とは物ぐさの意ではない、 部の毒ぜつ家の大塚が名付けてくれたのである。即ち「モン」は富田先生のモンキーから 「グサ」は私の呼名のクササンからである。この「モングサ」から富田先生と岡田先生のコンビになって技術的に上昇を辿り、国体で優勝して帰って来た時、 高崎駅頭で富田先生と泣きながら握手したのを覚えている。

こうした輝しい部も創立当時は学校のブラックリストにのっている生徒が入部を希望したので部員の中には停学や誰慎の処分を受けた者も数人いた。

富田先生と私はこの生徒達にラグビー精神を説ききかせ、例の小型のボールでキック、パス、ドリブルなどを教えた。

私は大正9年早稲田大学のラグビー部草創時代の部員で、 現在の新しい技術的指導をする何にも持っていないので自然精神指導が主眼となり生徒達を自宅に集め、 ラグビー座談会を催した生徒達の顔から生気がよみがえり、殊にブラックリスト達は嬉々として集って来た。どれも皆よい生徒ばかりだった。

その頃は中学校が高等学校に改編期だったので、 或る日教務主任の先生が私を尋ねて来られ「あの生徒は勉強はせず悪いことばかりしているので高等学校に入学しても望がないから保護者にも了解をえたから」と高等学校進学を拒んだので私は富田先生と相談して一ヶ年だけラグビー部で責任をもつ条件で進学した生徒もいた。その後彼は勉強もし、人間的にも成長して大学を卒え、現在は中学校で教離をとっている。

私はブラックリスト達が大学を卒え、一流会社の課長になったり或は自営で盛業を続け、各自が与えられた責務を忠実に果している真しな姿を見る時「ラグビー部をやらせてよかったなあ!」と思うのである。

それ故に私はラグビー部創立20周年に次の文を綴り、刻んだ記念橋を贈りたいと思っている。

Only fifteen menbers

Only a duty done

now, they have won the Victory.

昭和40年10月18日

高草木喬




刊行のこと ば

私は昭和14年3月明治大学を卒業、高崎市の理研水力機株式会社に就職、友人達と高崎理研ラグビーチームを結成した。その時のメンバーの平田克巳氏に、高草木喬先生を紹介された。それは終戦後の昭和22年のある初秋の夜であった。それが起縁となり、高崎高等学校ラグビー部を指導することになり。以来約20年の間、 監督指導し、 130名のO·Bを送つた。

憶いおこすと長い間にも感じられ、また憶い出を辿ると、ほんとうに短い間であったようにも感じられる。

そこで、この本の刊行を、次の三つの理由から思いたった。第一は、本年度で創立20年の歳月をへたこと。第二は、長年、直接監督指導した私が書いておかなければ、この輝しい高崎高等学校ラグビー部の歴史が消えてしまいそうに思われたこと。第三は、私は昭和38年以来、 野球部を担当することにになったので、 ラグビーのことについて考える余暇がなくなり、記憶もうすれつつあること。

以上のことから過去の記録をひもときながら、記おくを辿り、思うようには書けないが、年次を追ってまとめてみることにした。

勿論、私の書くこと故、細大もらさず書き連ねることはできない。楽しかったことなどおもい出すままにつづってみた。

この歴史に、輝しい記録をとどめさせていただいた、 御理解ある多くの方々の御指導御機達に対して、 また資料を残して下さった富田俊一先生はじめ先輩の諸兄に深甚の謝意を表します。

昭和40年8月

岡田由重