序文
何時かは誰か書かねばならない高崎高等学校ラグビー部史を岡田先生が書いて下さったその御苦労を心から感謝している。
今から20年前の終戦直後高崎中学校の生徒が誇りと希望を失い放心したように夜遅く繁華街をほう復している姿を見かけ先輩の一人として私は心を傷めたのである。
私は運動具店でアメリカンフットボールのボールを見つけた、定価は500円だった。早速これを求めて高崎中学校の富田先生を尋ね「生徒にラグビーをさせ、生気をよみがえらせてやりましよう」と意気投合、 直ちに内藤校長に面接し、ラグビー部設置をお願いしたが最初先生は「ラグビーは乱暴なゲームでしよう」と困惑顔。そこで私は肉弾相撃つゲームで、 一見乱暴に見えるがラグビーゲーム程正義と自制の精神を要求されるゲームはな
いので乱暴に堕する危具は全くないし、 現在希望を失った生徒には最適なスポーツであることを説明すると内藤校長は九州なまりのある元気な声で「よろしい、やらせえましよう」と気持よく許し、この一声がラグビー部を生んだのである。
そしてこの時から「モングサ」 のコンビが始まった。「モングサ」とは物ぐさの意ではない、 部の毒ぜつ家の大塚が名付けてくれたのである。即ち「モン」は富田先生のモンキーから 「グサ」は私の呼名のクササンからである。この「モングサ」から富田先生と岡田先生のコンビになって技術的に上昇を辿り、国体で優勝して帰って来た時、 高崎駅頭で富田先生と泣きながら握手したのを覚えている。
こうした輝しい部も創立当時は学校のブラックリストにのっている生徒が入部を希望したので部員の中には停学や誰慎の処分を受けた者も数人いた。
富田先生と私はこの生徒達にラグビー精神を説ききかせ、例の小型のボールでキック、パス、ドリブルなどを教えた。
私は大正9年早稲田大学のラグビー部草創時代の部員で、 現在の新しい技術的指導をする何にも持っていないので自然精神指導が主眼となり生徒達を自宅に集め、 ラグビー座談会を催した生徒達の顔から生気がよみがえり、殊にブラックリスト達は嬉々として集って来た。どれも皆よい生徒ばかりだった。
その頃は中学校が高等学校に改編期だったので、 或る日教務主任の先生が私を尋ねて来られ「あの生徒は勉強はせず悪いことばかりしているので高等学校に入学しても望がないから保護者にも了解をえたから」と高等学校進学を拒んだので私は富田先生と相談して一ヶ年だけラグビー部で責任をもつ条件で進学した生徒もいた。その後彼は勉強もし、人間的にも成長して大学を卒え、現在は中学校で教離をとっている。
私はブラックリスト達が大学を卒え、一流会社の課長になったり或は自営で盛業を続け、各自が与えられた責務を忠実に果している真しな姿を見る時「ラグビー部をやらせてよかったなあ!」と思うのである。
それ故に私はラグビー部創立20周年に次の文を綴り、刻んだ記念橋を贈りたいと思っている。
Only fifteen menbers
Only a duty done
now, they have won the Victory.
昭和40年10月18日
高草木喬
刊行のこと ば
私は昭和14年3月明治大学を卒業、高崎市の理研水力機株式会社に就職、友人達と高崎理研ラグビーチームを結成した。その時のメンバーの平田克巳氏に、高草木喬先生を紹介された。それは終戦後の昭和22年のある初秋の夜であった。それが起縁となり、高崎高等学校ラグビー部を指導することになり。以来約20年の間、 監督指導し、 130名のO·Bを送つた。
憶いおこすと長い間にも感じられ、また憶い出を辿ると、ほんとうに短い間であったようにも感じられる。
そこで、この本の刊行を、次の三つの理由から思いたった。第一は、本年度で創立20年の歳月をへたこと。第二は、長年、直接監督指導した私が書いておかなければ、この輝しい高崎高等学校ラグビー部の歴史が消えてしまいそうに思われたこと。第三は、私は昭和38年以来、 野球部を担当することにになったので、 ラグビーのことについて考える余暇がなくなり、記憶もうすれつつあること。
以上のことから過去の記録をひもときながら、記おくを辿り、思うようには書けないが、年次を追ってまとめてみることにした。
勿論、私の書くこと故、細大もらさず書き連ねることはできない。楽しかったことなどおもい出すままにつづってみた。
この歴史に、輝しい記録をとどめさせていただいた、 御理解ある多くの方々の御指導御機達に対して、 また資料を残して下さった富田俊一先生はじめ先輩の諸兄に深甚の謝意を表します。
昭和40年8月
岡田由重
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